教育心理学の不毛性論議のゆくえ

                                       
森 敏昭

 教育心理学の不毛性が語られ始めてすでに久しい。どうやら日本の教育心理学
界の内部には、いつしか不毛性の構図が成立してしまったようである。では、そ
の不毛性の構図とは何なのか。それを明らかにするために、いささか唐突ではあ
るが、日本酒の分析から話を始めることにしよう。なぜなら、日本酒の世界と教
育心理学の世界の間には、同型写像の関係があるからである。

 日本酒と教育心理学の構成要素

 稲作文化の日本では、米を原料にする独自のアルコール飲料が生まれた。最初
は「濁酒(どぶろく)」のような野卑な酒に過ぎなかった。しかし、旨い酒を追
求して止まない日本人は、やがて「清酒」を造り出し、米の新品種(山田錦や五
百万石などの酒造好適米)を作り出し、さらには精米技術の革新によって「吟醸
酒」を作り上げた。かくして日本酒は、今や世界に冠たる日本の文化になった。
 その日本酒には本物と偽物がある。すなわち、米と麹と水だけで造られる「純
米酒」が本物の日本酒である。これに対し偽物の日本酒とは、トウモロコシなど
米以外のデンプンで作られる醸造アルコールの含有率が10%を越える「普通酒」
のことを指している。
 一方、教育心理学研究の構成要素である「データ」「理論」「研究法」は、純
米酒の構成要素である「米」「麹」「水」に対応している。つまり、優れた教育
心理学の研究は、「豊かなデータ」「力強い理論」「洗練された研究法」から生
まれるのである。

 日本酒と教育心理学研究の品質表示

 日本酒と教育心理学の間には、品質の点でも同型写像の関係がある。
 日本酒の品質は、酸度を縦軸、日本酒度を横軸とする二次元の座標によって表
すことができる。縦軸の酸度は酒中に含まれる有機酸(乳酸やリンゴ酸など)の
総量であり、酸度が低いと「淡麗」な酒に、酸度が高いと「濃醇」な酒になる。
これに対し、横軸の日本酒度は水に対する比重のことを指し、糖分が少ない酒ほ
ど日本酒度はプラスに傾き、「辛口」の酒になる。逆に日本酒度がマイナスに傾
くと、「甘口」の酒になる。したがって日本酒の品質は、酸度および日本酒度の
高低の組み合わせによって、「淡麗辛口」「淡麗甘口」「濃醇辛口」「濃醇甘口」
の4タイプに分類することができる。
 一方、日本酒の酸度に対応する教育心理学の世界の縦軸は、「理論(淡麗)志
向」対「実践(濃醇)志向」の軸である。すなわちこの軸は、教育実践の現実か
ら離れて観念的に教育心理現象の本質に迫ろうとする「虚学派」と、教育実践へ
の具体的な働きかけを通して教育実践の改善を目指す「実学派」の対比である。
これに対し、日本酒度に対応する教育心理学の横軸は、「研究法の厳密さ」の軸
である。例えば、厳密な条件統制を行う実験室研究は「辛口」であり、それほど
厳密な条件統制を行わないフィールト研究は「甘口」に対応する。したがって教
育心理学の研究の品質も、日本酒の品質表示の場合と同様に、「淡麗辛口」「淡
麗甘口」「濃醇辛口」「濃醇甘口」の4タイプに分類することができる。
 しかも、日本酒の世界の価値観と教育心理学の世界の価値観の間には、またし
ても同型写像の関係がある。すなわち、最近の日本酒の世界では「淡麗辛口」の
酒が名酒としてもてはやされる傾向がある(日本酒の鑑評会で金賞を受賞するの
は、ほとんど「淡麗辛口」タイプの酒である)。同様に教育心理学の世界でも、
「淡麗辛口」タイプの研究が優れた研究として高く評価される傾向がある(学会
賞を受賞する論文のほとんどは、「淡麗辛口」タイプの論文である)。
 さて、以上の検討を踏まえて、日本の教育心理学の不毛性論議に話を戻すこと
にしよう。

 教育心理学とモード論

 なぜか日本では、虚学派はアカデミズムの高みから実学派を一段低く見下し、
実学派は虚学派の虚学性を告発するという反目の構図が成立してしまったようで
ある。日本の教育心理学界では教育実践への貢献を目指す実践研究が遅々として
進まない最大の原因は、おそらく、この反目の構図のなかに潜んでいるのではな
いだろうか。もしそうだとすれば、それはなぜなのか。そのことをもう少し詳し
く説明するために、トーマス・クーンのパラダイム論を超える科学論として最近
注目されている、マイケル・ギボンズの「モード論」を援用することにしよう。
 
ギボンズは学術研究のあり方を「現実社会との関わり」という観点から分析し、
これからの学術研究の様式は「モード1」から「モード2」へと脱皮するべきだ
と論じている。
 ギボンズのいう「モード1」とは、伝統的なアカデミズムの世界の研究様式を
指しており、前述の日本酒の4タイプに例えれば、「淡麗辛口」の研究様式とい
える。すなわち「モード1」では、現実社会の問題からは離れて、高度に抽象化
された非現実的な世界のなかだけで論議が終始する。そして、そこで構築された
理論と現実世界との関わりが問われることはほとんどない。要するに「モード1」
は、虚学派の研究者たちの研究様式といえる。また、「モード1」の世界では、
学会という階層社会の価値観に従って研究の内容や方向が決定される。そしてそ
の研究成果は、学会によって正統性を認定された学術雑誌に掲載され、もっぱら
閉ざされたアカデミズムの世界の内部だけで流通する。このため、賢明な虚学派
の研究者たちは、実践研究に手を染めたりはしない。なぜなら、実践研究の現場
は統制不可能な多数の要因が渦巻くカオスの世界だからである。つまり、実践研
究の成果を学会誌に掲載されるような洗練度の高い論文にまとめ上げるのはきわ
めて難しい。論文が書けなければアカデミズムの世界のサバイバル・レースを勝
ち抜くことはできない。有り体に言えば、実践研究ではメシが食えない。要する
に、実践研究に取り組むような冒険はせずに、「モード1」の世界で手堅い研究
をし、その成果をジャーゴンで塗り固めたような論文にまとめて学会誌に投稿す
る方が、はるかに賢明な処世術なのである。おそらくこのことが、虚学派の研究
者たちの多くが「臆病」にならざるを得ない理由なのではないだろうか。
 これに対し「モード2」は、実学派の研究者が採用するべき研究様式である。
すなわち「モード2」は、「モード1」が社会の現実的な問題から隔絶されてい
るのとは対照的に、現実社会に対して開かれている。また、「モード1」では個
々の学問領域の独自性が尊重されるのに対し、「モード2」では学問領域を越え
た連帯が重視される。つまり「モード2」では、現実社会の具体的な問題を解決
することが研究の目的であり、その研究様式は、多様な学問領域を統合する協同
的問題解決のアプローチなのである。
 
ギボンズは、以上のような分析に基づいて、「モード1」を否定し、これから
の学術研究の様式は「モード1」から「モード2」へと脱皮すべきだと論じてい
る。しかし筆者は、「モード1」の存在意義を根底から否定するつもりはない。
要するに日本の教育心理学の不毛性の原因は、「モード1」と「モード2」が断
絶していることなのである。したがって、今後の教育心理学に求められているこ
とは、「モード1」と「モード2」の断絶を修復し、新たに「モード3」を成立
させることである。その「モード3」とは、「モード2」の世界で問題を発掘し、
それを「モード1」の世界で分析・吟味・理論化し、それを再び「モード2」の
世界に還元するという絶えざる知の循環システムのことを指している。
 そうした「モード3」を成立させるための条件は、アカデミズムの世界に閉じ
籠もるのではなく、社会の現実に対して心を開くことである。そして、アカデミ
ズムと実践のきわどい緊張関係のなかで、情熱を燃やし、感性を研ぎ澄まし、理
論を鍛え直し、言葉を磨き上げることである。もちろん、それを言葉で述べるの
は容易であるが、実際にそれを成し遂げるのは決して容易な作業ではない。しか
し、それを成し遂げない限り、日本の教育心理学は永遠に不毛性の烙印を消し去
ることはできないであろう。
 嬉しいことに、教育実践の現実に果敢に踏み込みながらもアカデミズムの輝き
を失わない「モード3」の研究が、ようやく日本でもなされ始めた。次回以降、
そうした研究の中から主要なものを取り上げて紹介することにする。
                   
(もり・としあき=広島大学大学院教育学研究科教授)