学力低下論争と教育心理学
森 敏昭
日本酒と教育心理学の二極化の構図
前回は、日本酒界と教育心理学界の同型写像の関係を明らかにした上で、今後
の教育心理学は「淡麗辛口(モード1)」と「濃醇甘口(モード2)」の断絶を
修復し、新たに「濃醇辛口(モード3)」の研究様式を成立させるべきだと述べ
た。また、それを成し遂げるのは決して容易な作業ではないとも述べた。その理
由は、日本酒と教育心理研究の品質を規定する二つ軸の間に相関関係があるから
である。つまり、日本酒度が同じ水準の場合、酸度が低くなると「辛口」の酒に
なる。このことは、厳密さの水準が同じ研究法を用いても、「理論志向」の研究
では「辛口」に傾き、「実践志向」の研究では「甘口」に傾くことを意味してい
る。このため、必然的に「モード1」と「モード2」への二極化が生じ、「モー
ド3」の教育心理学を成立させるのが難しくなるのである。
したがって、この二極化の構図に風穴を開け、新たに「モード3」の教育心理
学を成立させるためには、教育実践の現実のリアルで切実な問題を分析・吟味・
理論化するための、新たな研究法の開発が必要になる。従来、「モード1」の教
育心理学では、伝統的に量的データを重視し、質的データを軽視する傾向があっ
た。確かに量的データには数値ならではの「淡麗辛口」のキレがある。これに対
し質的データには、数値にはない「濃醇甘口」の豊かさがある。したがって、
「モード3」の教育心理学では、量的データと質的データの長所を生かしつつ、
両者を併用することが重要になるだろう。
学力低下論争
では、「モード3」の教育心理学が取り組むべきリアルで切実な問題とは、い
ったいどのような問題なのだろうか。その一例として、今回は「学力低下論争」
を取り上げることにしよう。
日本の教育界は今、学力低下論争で揺れている。論争の発端は、岡部・戸瀬・
西村らが指摘した大学生の学力低下問題である。彼らは、国公私立の大学生を対
象にして、小中学校レベルの数学(算数)のテストを実施した。その結果、大学
生の学力低下の惨憺たる実態が明らかになった(詳細は東洋経済新報社刊の『分
数ができない大学生』および『小数ができないは大学生』を参照のこと)。
西村らはさらに、こうした大学生の学力低下の原因を、大学に入学する以前の
初等・中等教育の問題に求め、文部科学省の「ゆとり教育」路線は学力低下に拍
車をかけると批判した。かくして国論を二分する学力低下論争の火ぶたが切って
落とされたのである。
では、小中高の児童・生徒の学力は本当に低下しているのだろうか。不思議な
ことに、論争が白熱している割には、この点に関する確たる証拠はないようであ
る。しいてあげるならば、IEA(国際教育到達度評価学会)が世界各国の加盟
機関と共同で実施した国際数学・理科教育調査の調査結果である。それによると、
児童・生徒の数学・数学の学力は確かに低下傾向にある。しかし、国際比較をす
れば、我が国の児童・生徒の学力は、今なお高い水準を保っている。したがって、
この調査結果を「学力低下」の証拠とみなすのは早計であり、「我が国の小・中
学校段階の児童・生徒の学力は、全体としておおむね良好である」という文部科
学省のいささか楽観的すぎるコメントも、あながち的はずれではない。
ところで、この学力低下論争は決して新しい論争ではない。そのことは学習指
導要領の改訂の歴史を振り返ってみれば自ずから明らかである。
戦後の日本の教育界は、対立する二つの学力観の間を、あたかも振り子のよう
に揺れ動いてきた。その一方の極(第一の学力観)は、社会科と自由研究を設け
た昭和二十二年の学習指導要領の背景になっている、生きて働く「自己教育力」
重視の学力観である。この第一の学力観に基づく教育改革に対しては、基礎学力
の低下を危惧する批判の声が常につきまとった。例えば昭和二十年代には「学力
低下」批判の声が渦巻き、「基礎学力の防衛」として「読み・書き・算」の重要
性が説かれた。こうした基礎学力重視の第二の学力観が、系統主義と道徳の時間
の創設を特徴する昭和三十三年の学習指導要領の改訂を導いたのである。この系
統学習重視の路線は昭和四十三年の改訂でさらに強化されたが、今度は一転して
「知識偏重」「詰め込み教育」批判の声が上がり、「ゆとりの時間」を設けた昭
和五十二年の改訂、新学力観を掲げ生活科を設けた平成元年の改訂、さらには
「総合的な学習の時間」を設けた現行の学習指導要領への改訂を導いた。そして
今回の改訂に対しては、またもや『学力崩壊』『ゆとり教育亡国論』などの批判
が噴出した。
このように二つの学力観は、AかBかというように、常に排他的な対立関係と
して論議されてきた。つまり、学力低下論争の場合にも、前述の二極化の構図が
成立しているのである。
市川伸一氏は、この学力低下論争の構図を次のような二次元の座標によって分
析している(詳細は筑摩書房刊の『学力低下論争』を参照のこと)。すなわち、
第一の軸は「ゆとり教育路線」に「反対」対「賛成」の軸であり、第二の軸は、
学力低下に対する「憂慮」対「楽観」の軸である。さて、この「反対」対「賛成」
の軸を「理論(淡麗)志向」対「実践(濃醇)志向」の軸に対応させ、「憂慮」
対「楽観」の軸を「辛口」対「甘口」の軸に対応させてみよう。そうすれば、学
力低下論争の二極化の構図は、日本酒(教育心理学)の世界の「淡麗辛口(モー
ド1)」と「濃醇甘口(モード2)」への二極化の構図と同型写像の関係である
ことが明らかになる。つまり、学力低下を憂慮し「ゆとり教育路線」に反対する
学力低下論者は「淡麗辛口」派に属し、「ゆとり教育路線」を推進している教育
行政官は「濃醇甘口」派に属しているのである。
以上の分析に基づき、市川氏自身は第三の極を志向している。その第三の極と
はすなわち、学力低下を「憂慮」しながらも「ゆとり教育路線」に賛成する「濃
醇辛口(モード3)」の立場に他ならない。したがって、市川氏も学力低下を
「憂慮」しているのであるが、憂慮の中身が学力低下論者とは異なっている。す
なわち、学力低下論者は学力の「量の低下」を憂慮しているのに対し、市川氏は
「質の低下」を憂慮しているのである。
市川氏は、この学力の「質の低下」の原因は子どもたちの「暗記主義」「物量
主義」「結果主義」の学習観であることを明らかにし、「もう一つの学力低下論」
を展開しているのであるが、その詳細は次回に詳しく紹介することにして、今回
は学力の「質の低下」を認知心理学の理論に基づいて鮮やかに描き出した藤澤伸
介氏の研究を取り上げることにする。
ごまかし勉強
藤澤氏は、市川氏と同様に「学力低下」を学力の「量の低下」ではなく「質の
低下」ととらえ、学力低下の原因は日本の社会に「ごまかし勉強」生成システム
が巣くっていることにあると指摘している(詳細は新曜社刊の『ごまかし勉強
(上・下)』を参照のこと)。藤澤氏によると、最近の日本の学校で蔓延してい
る「ごまかし勉強」には次のような特徴があるという。
第一の特徴は、試験勉強の範囲を限定し、深化学習や発展学習を一切行わない
ことである。その理由は、深化学習や発展学習の内容が試験で出題されることは
あまりないからである。
第二の特徴は、試験勉強の際に、用語の意味を自分で調べたり、学習内容の要
点を自分でまとめたり、暗記材料を自分で作るようなことはしないことである。
つまり、教師が「これを覚えなさい」と渡してくれたものを使うか、ワークブッ
クや教科書ガイドに載っているもので済ませてしまうのである。藤澤氏は、この
特徴を「代用主義」と名付けている。
第三の特徴は、新しく獲得した知識が既有知識(学習者が既に獲得している知
識)と関係づけられることなく隔絶化されることである。このため、知識の定着
作業だけは行うものの、試験が終われば直ちに忘れられてしまう。
こうした「ごまかし勉強」でも、定期試験ではけっこうよい点を取ることがで
きる。試験の成績がよければ先生も褒めてくれるし、親も喜んでくれる。自分自
身も気分良く過ごすことができる。このようにして、次第に市川氏が指摘する暗
記主義(答えを出す手続きや断片的な知識を暗記するのが学習だと考える)、物
量主義(学習方法の工夫はせずに学習時間や練習量だけを重視する)、結果主義
(思考過程よりも答えが合っていることだけを重視する)の学習観が形成される
ことになる。
しかし、意味のわからないことを機械的に丸暗記する作業は、「労役」以外の
何物でもない。そのため、それに耐えることのできない生徒の多くは、学習から
逃避する道を選ぶ。教師の方も、なかなか学習してくれない生徒に手を焼き、あ
らかじめ試験に出る箇所を教えたり、丸暗記すればできるような試験問題を出し
たりする。こうした教師の過保護対策が、ますます「ごまかし勉強」を助長する。
このようにして、生徒は新しい意味体系を自ら獲得することの達成感や充実感を
味わうことなく、ただ「試験のために覚え、試験が終われば忘れる」という無意
味な他律的学習を繰り返すことになるのである。以上が藤澤氏の指摘する「ごま
かし勉強」の恐るべき実態である。
(もり・としあき=広島大学大学院教育学研究科教授)