教科学習と教育心理学
森 敏昭
「夏子の酒」との出会い
この連載エッセイをお読みくださっている読者の皆様は、筆者が熱心な日本酒
の信奉者であることに、すでにお気づきのことであろう。しかし、決して昔から
そうだったのではない。少し以前までの筆者は、「日本酒は日本文化の恥だ!」
と、むしろ日本酒を軽蔑していたくらいである。というのも、筆者がまだ幼かっ
た頃に、無類の酒好きだった父の飲み残しの酒を盗み飲みしたことがあった。そ
の時の「大人はどうしてこんな不味いものが好きなんだ!」という強烈な印象が、
一種のトラウマになっていたからである。
そんな筆者が『夏子の酒』(尾瀬あきら著・講談社『モーニング』一九八八年
二八号〜一九九一年一四号に連載)に出会ったのは、今から十数年前のことであ
る。和久井映見さんの主演でドラマ化されたので、ストーリーをご存じの読者も
多いことであろう。しかし筆者と『夏子の酒』との出会いは、そのテレビドラマ
ではなく、全12巻の講談社漫画文庫によってである。その感動の超大作を一気に
読了した筆者は、すぐに酒屋へ走った。そして、買い求めた「純米酒」を一口飲
んだ瞬間に、すべてを理解した。父が飲んでいたのは日本酒とは名ばかりの偽物
で、本物の日本酒はかくも高貴な美酒だったのか・・・と。そのとき筆者は、長
年の不明を深く恥じ、「世界に冠たる日本の文化」を生涯をかけて追求しようと
堅く心に誓ったのである。
ところで、『夏子の酒』のヒロイン・佐伯夏子が、亡き兄の遺志を受け継ぎ、
数々の困難の末に造りあげた酒は、いったいどんな酒だったのだろうか。筆者は、
それは「濃醇辛口」の名酒だったに違いないと確信している。なぜならその酒は、
「七色に輝く美酒」と形容されているからである。
「濃潤辛口」の教科学習
縁とは不思議なもので、『夏子の酒』との出会いと同じ時期に、筆者は七色に
輝く秋田喜代美氏と出会った。しかも、その時の秋田氏は、「濃醇辛口」の酒を
追求している佐伯夏子のように、「濃醇辛口」の教科学習(授業)を追求してい
た。では、秋田氏が今もなお追求している七色に輝く「濃醇辛口」の授業とは、
いったいどのような授業なのだろうか。その答えは、日本教育心理学会の機関誌
『教育心理学研究』第四四巻第二号に所収の論文に明瞭に示されている。
秋田氏は、教職課程を受講している大学生と未受講の大学生、高校新任教師、
小・中・高校の中堅教師に、「授業(教えること、教師)は〜のようである。な
ぜなら・・・だから」という形式で、授業についての比喩とその説明を求めた。
その結果、大学生の多くは、授業を「知識伝達の場」(比喩の例:テレビ番組、
説教)ととらえ、授業は筋書き通りに進むもので(比喩の例:台本、カレンダー)
、教師の役割は知識の伝達者(比喩の例:役者、アナウンサー)だと考えている
ことがわかった。これに対し経験を積んだ教師は、授業を子どもの共に創る「共
同作成の場」(比喩の例:チームプレーのゲーム、オーケストラ)ととらえ、教
師の役割は支え手(比喩の例:黒子、縁の下の力持ち)と考えていることがわか
った。紙数の制約のため詳しい議論は省略するが、秋田氏はこの調査結果から、
21世紀の授業は「知識伝達の場」から「共同作成の場」へと変わるべきだという
結論を導き出し、その実現を図るために日本全国の教育現場を飛び歩いている。
その明るく爽やかなイメージは、アカデミズムと教育実践をつなぐ「七色の虹の
架け橋」と形容するのが最もふさわしい。
ではなぜ、「共同作成の場」でなされる教科学習は「濃醇辛口」と言えるのか。
そのことを説明するためには、再び日本の教育心理学の不毛性の構図について言
及する必要がある。
この連載の初回に、筆者はマイケル・ギボンズのモード論を援用し、日本の教
育心理学の不毛性の原因は「モード1」と「モード2」が断絶していることにあ
ると述べた。また、この不毛性の構図は、日本酒の世界の「淡麗辛口」と「濃醇
甘口」への二極化の構図と同型写像の関係であるとも述べた。
さて、ギボンズの言説の中の「研究」を「学習」に、「学問分野」を「教科」
に置き換えてみよう。そうすれば、学界の不毛性の構図と学校の不毛性の構図の
間にも同型写像の関係があることが明らかになる。つまり、伝統的な学術研究の
研究様式が「モード1(淡麗辛口)」であるのと同様に、学校での伝統的な学習
様式も「モード1」である。すなわち、「モード1」の研究様式では個々の「学
問領域」の独自性が尊重される(これを俗に「タコツボを掘る」と表現する)。
同様に「モード1」の学習様式では個々の「教科」の独自性が尊重され、教科の
枠を越えての「知の総合化」がなされることはほとんどない。しかも、「モード
1」の学習と「モード2(濃醇甘口)」の学習が断絶している。つまり学校での
フォーマルな学習が、家庭や地域社会でのインフォーマルな学習(「モード2」
の学習)と繋がっていないのである。このため、子どもたちには学習の意味が見
えず、しばしば「歴史の年号を覚えることに何の意味があるのか」「物質の化学
式を覚えても、それが何の役に立つのか」「因数分解ができなくても、大人たち
は別に困っている様子はないではないか」などの疑問を抱くのである。しかし健
気な子どもたちは、「試験でよい点を取るためだから仕方がない」と諦めて、ひ
たすら無味乾燥な知識の詰め込みに励む。このようにして、子どもたちは教科学
習の面白さや充実感を味わうことなく、ただ「試験のために覚え、試験が終われ
ば忘れる」という不毛な「ごまかし勉強」を繰り返すことになるのである。
要するに学校での教科学習を「意味ある学び」にするためには、バラバラに切
り離された教科ごとの学習を総合すると同時に、「モード1(淡麗辛口)」の学
習を「モード2(濃醇甘口)」の学習とつなげ(すなわち学習を生活とつなげ)、
「モード3(濃醇辛口)」の教科学習」を成立させることが重要なのである。
七色に輝く教科学習
最後に、そうした「濃醇辛口」の教科学習は、なぜ「七色の輝く」と形容する
のがふさわしいのかを説明しておくことにしよう。
その理由は、虹の七色が赤・青・黄の三原色から作り出されるのと同様に、
「濃醇辛口」の教科学習も赤・青・黄の三色の糸で編み上げられるべきだからで
ある。要するに「濃醇辛口」の教科学習とは、一人ひとりの子どもたちが、それ
ぞれの自己実現を目指して伸びていく、自己形成の営みなのである。そして、そ
の自己形成の過程は、「三色の糸で個性という編み物を編み上げる過程」に例え
ることができる。
その第一の糸は、「情(なさけ)」の赤い糸である。つまり、「ナンバーワン」
ではない「オンリーワン」の酒を追求する佐伯夏子の情熱が「七色に輝く美酒」
を造りあげたのと同様に、教科学習も本来は、子どもたちの情念の世界から湧き
上がってくる、「こんなことが知りたい」「あんな人間になりたい」「こんなふ
うに生きたい」などといった思いや願いを原動力にして営まれるべきなのである。
しかし、そうした思いや願いがいくら強くても、それだけで「濃醇辛口」の教
科学習が成立するわけではない。佐伯夏子が師匠の山田杜氏から酒造りの理論を
学んだように、子どもたちもそれぞれの将来に備え、学校での教科学習を通して、
多様な学問的知識の「基礎・基本」を習得しておく必要がある。つまり、教科学
習の奥には、人文科学、社会科学、自然科学など、さまざまな学問の体系、すな
わち「理(ことわり)」の体系がある。これが第二の青い糸(「理」の糸)であ
り、この青い糸と前述の「情」の赤い糸とを繋ぎ合わせることによって、「濃醇
辛口」の教科学習が成立するのである。
学びを編み上げる第三の糸は、「和(なごみ)」の黄の糸である。自己形成の
過程とは、自分自身の個性を自覚し、社会の中での自分の居場所を定位し、他者
との関わり合いの中で自己実現を図っていく過程に他ならない。つまり、人間は
他者という鏡に自分の姿を映すことによって初めて自分の個性を自覚することが
できるのである。したがって、自己形成のためには、赤い糸と黄の糸を縒り合わ
せること、すなわち、他者に出会い自己に向き合う作業が不可欠である。
また、黄の糸は、赤い糸と青い糸を繋ぎ合わせるための不可欠な要素でもある。
なぜなら人間は、他者と出会い、人の輪(ネットワーク)を作りながら、さまざ
まな事柄を学んでいくべき存在だからである。つまり、心の成長のためには、他
者との心の交流を通して共に学び合うための、学びのネットワークが不可欠であ
る。そして、そうした学びのネットワークを作り広げていくためには、他者に心
を開き他者と心を合わせる、「和の心」が大切なのである。例えば佐伯夏子の
「七色に輝く美酒」も、決して彼女一人の力によって造られたのではない。それ
は、彼女のひたむきな努力に心を動かされて幻の酒造好適米「龍錦」の栽培を手
伝ってくれた農家の源さんや、彼女の志に共鳴した若き杜氏の草壁など、多くの
人々の協力によって造られた、正に「共同作成」なのである。その意味で「夏子
の酒」は、佐伯夏子の心を映す鏡であり、彼女の心の成長の証でもあるのである。
(もり・としあき=広島大学大学院教授)