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広島酒造りトラストタイトル,酒おこしまちおこし研究会
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広島酒造りトラストは2005年千代乃春酒造で酒造り体験と酒造りを引き続き行うことになりました。
千代乃春酒造酒銘「千代乃春ロゴ」千代乃春酒造さんのご紹介 とりまく環境のご紹介
社名:千代乃春酒造株式会社
〒739-0269 東広島市志和町志和堀3312
  TEL:082-433-2727
  FAX:082-420-5788
創業:寛延二年(1749)志賀屋 森格兵衛創業。
      明治初年、姓を森から竹尾と改め現在に
      至る。
      母屋は、創業当時のもの、醸造蔵は近年
      の調査で上棟札が発見され明治末期に、
   立替えられたものと判明。今年で256年。
酒銘の由来:
   俳聖 松尾芭蕉の句「天秤(てんびん)や
   京江戸かけて 千代乃春」より選んだもの
   と伝えられています。
変遷:昭和7年(1932年)満州国建国とともに奉天(現在の
   瀋陽市)に進出、千代乃春合名会社設立。満州国での
   さきがけとして発展され。
   昭和23年(1948年)個人経営の千代乃春
   酒造場を法人化され千代乃春酒造株式会社
   となり、現在に至ります。
現在:社長の竹尾吉郎さんは6代目、現在お孫さんの郁子さん
      が広島大学で醗酵を学ばれご卒業、現在、社長と杜氏の
   もとで経営と酒造りの両面から7代目修行中。
   現在の杜氏は、ベテランの林市昭さん。
   平成15年度全国新酒鑑評会に於いて、見事金賞を受賞
   されています。
平成15年度新酒鑑評会公開きき酒会 平成15年度全国新酒鑑評会金賞受賞千代乃春
東広島市西条町の独立行政法人酒類総合研究所で行われた平成15年度全国新酒鑑評会で、みごと金賞を受賞されました。公開きき酒会は平成16年5月に東広島市運動公園アクアパーク体育館で、おこなわれ全国から酒造関係者、酒販店関係のみなさんがあつまってこられました。この年は、酒類総合研究所が前身の国税庁醸造研究所発足以来創立100周年を迎えた記念すべき年に当たり記念式典も行われていました。
2005年3月12日(日)千代乃春酒造の庭には創立時植えられた、樹齢250年の老白梅が表の道路までほのかな甘い香を漂わせていました。この日は、千代乃春酒造の新酒蔵出しの日で朝から県内各地から千代乃春酒造の新酒を買い求めに多くのファンが訪れていました。
瓶詰め工場で、この日に限り特別に、純米吟醸生原酒を、目の前で直接瓶詰めをして、手渡してもらえるのです。
この日は、社長さんをはじめ杜氏さんや酒造りに携わった蔵人の皆さんからいろいろなお話を伺うことが出来、とてもうれしくなった一日でした。、母屋では新酒の酒粕を使った甘酒も振舞われ、お酒の飲めない子供さんにもとても楽しめる日であったことはいうまでもありません。
千代乃春酒造と蛍の舞う半川千代乃春酒造の辺には一級河川半川(はんかわ)が流れています。
半川周辺では毎年、地元の志和堀地区総出でホタルまつりが行われ、東広島市のみならず、広島県内外から、蛍を見るために観光客が訪れます。
地元の志和堀小学校では総合学習の環境学習として蛍の幼虫のすむ半川の清掃作業を行います。

母屋の軒先には、酒の神様、三輪神社からいただいた、杉玉が下がっています。
三輪神社に祀られている大国主命は、薬の神様であることから、酒も古来、薬の一つとされていましたので、杉の葉で作った薬玉(クスリダマ→クスダマ)=杉玉が、酒造りのお守りであり、新酒ができたしるしとして、造り酒屋の軒先に吊るされるようになったといわれています。
千代乃春酒造-半川-蛍舞う川一級河川半川は、広島市内に流れる三篠川の支流で、海抜250mの志和高原を流れる清流です。
千代乃春酒造は、その蛍舞う半川の辺に立ち、清い井戸水を酒造の仕込み水として256年営々と酒造りに励んでこられました。

半川には、千代乃春酒造周辺では源氏蛍、もう少し時期が下がって上流では平家蛍が、美しくも悲しげな、灯りを灯しながら飛び回っています。
「蛍舞う 清きせせらぎ 志和の里」と、蛍の里の石碑が建てられています。 半川にかかる橋の欄干は、蛍舞う、蛍の里、志和堀のイメージを表わしています。
志和堀,ホタルまつり,のぼり志和堀のホタルまつりの時には半川周辺というか志和堀地区全体にこのホタルまつりののぼりが立てられ、まつりの雰囲気を盛り上げています。 千代乃春酒造から発売されている「純米吟醸酒蛍舞」千代乃春酒造からは、ホタルまつりに協賛して純米吟醸酒、蛍舞(ほたるまい)を発売しています。ラベルに蛍光塗料を使った蛍が描かれ、ひとつひとつ社員の皆さんが心をこめて筆をいれて居られるそうです。
ホタルまつりの時にはこのホタルまつりの記念として買い求めて帰られる観光客の皆さんが多いと言われます。
蛍の宿 志和堀地区にはまだ、いくつかの茅葺きの民家が残っています。この建物は、蛍の宿として、志和堀の民家を借り受け、環境学習の実習施設として運営をしている建物です。
五右衛門風呂が再現され、自分で薪割をし、風呂を沸かして入り、建物に宿泊できるなどの体験が出来るようになっています。
ホタルまつりの時などは、この「蛍の宿」に宿泊して、千代乃春酒造の蛍舞を心行くまで飲み交わし夜遅くまで語り合う人々も多いようです。
時報塔,国の登録有形文化財国の登録有形文化財、時報塔
時報塔説明版
銘文覚醒の鐘(かくせいのかね)東広島市志和町志和堀字二の平に建つ。
現在地元では、「かねつき堂」と呼び、親しまれている。外に「黄鐘(おうしょう)」の名もあり。
1921年(大正10年)2月、帝国在郷軍人会志和堀分室会長川口八百八らが疲弊した農村の活性化、時間励行などの実行を促すため、「覚醒の鐘」の建設を計画、村長橘鶴次の賛同を得て同村からアメリカへ入植している人々へ寄付を呼びかけ、岩国実夫・植木孫太郎・古谷常三郎・佐々木恕一・佐々木多一・佐々木喜三・湯川良郎・宮本俊一・畑与八・山根角一・古谷啓・佐崎若一・佐々木他々一・湯川一・宮本松一、他に敷地は小松権六、棚垣を竹村逸三、その他の寄付で建立された。竣工は大正11年5月7日。
平成9年国文化財指定・
時報塔の横には、「時ハ金」 「定時励行」 「時間節約」などの文字が刻まれている。現在も建てられた当時の黄鐘(こうしょう)が吊るされており、日本では半鐘が多いのだが、寄贈した米国在住者からアメリカ製の鐘が贈られたもので、教会などに吊るされている鐘が贈られたという珍しいものです。現在も教会の鐘独特の音を鳴らすことが出来ますが、現在ではサイレンが、鐘の変わりに時を知らせています。近年、時報塔の改修記念式では、建設当時そのままに、鐘を鳴らし、子供たちのこころにもその鐘の音を刻んでいます。志和堀地区では、今でも毎日サイレンが鳴らされ、建立当時の願いを人々に伝え続けています。(鐘つき堂物語より)
千代乃春周辺の地図
志芳堀荘(しわほりのしょう)
1337年(建武4年)12月2日、足利尊氏が本家宗領職として天野讃岐守顕氏に相続を許した中に志芳荘、堀荘・伊豆守天野荘、武蔵国由井本郷大畑村、美濃国下有地御厨本郷などとあり、その中に「堀荘」とあるところをみると、当時志和堀は、その領家は不明であるが、独立した荘園であったことが伺われる。(萩藩閥閲録遺漏)<飯田米秋>
志芳荘(しわのしょう)
和名抄にいう志芳郷の地、1128年(大治3年)の平正頼の譲状にはまだ、「志芳郷」(仁和寺文書)とある。
1200年(正治2年)2月28日吉田経房の日記「吉記」には、「志芳荘」とある。それによると志芳荘は、第77代後白河天皇の実姉上西門院統子内親王の荘園(本所)で、経房はその預所を勤めていたことが同記でわかる。のち志芳荘は、為寛僧都に譲り渡されるなどしている。1313年(正和2年)頃には京都東寺の造営料、次いで東二条院の御領となり、南北朝期の1336年(延元1年)11月26日には足利尊氏から京都本圀寺へ、1352年(正平7年)には、足利義詮からその地頭職が園城寺の造営料とし、1381年(弘和元年)7月には、大内義弘から厳島神社へ造営料としてその二分方地頭職が寄付され、幕府も承認している。国学院大学保存の久我家文書大原寺寺領目録の中に「安藝國志和給田」とあり、初めて「志和」の名となっている。
(賀茂郡史中世武士編)<飯田米秋>
毛利元就の七男 元政が、天野氏に養子に入り米山城入城
東天野氏12代目。毛利元就は11歳の七男、千虎丸を天野氏の養子とした。1569年(永禄12年)6月23日だった。
1570年(元亀元年)4月2日米山城に入城した。六郎左衛門尉・讃岐守・従五位下。天野氏は志芳での所領は15,500石だったが、関が原の戦い後は、周防国熊毛郡三丘(みつお)(山口県熊毛町)へ4,200石に減封。1625年(寛永2年)元政の子元倶のとき周防国右田村(防府市)へ移封され、天野右田毛利を称した。
(天野毛利文書・天野右田毛利譜録・関が原陣輯録・近世防長諸家系図綜覧)<飯田米秋>
神機隊(しんきたい)
正式には芸州回天軍第一起神機隊。幕末期芸州藩(広島藩)に結成された「諸隊」の一つ。賀茂郡志和七条(現東広島市志和町)の西蓮寺を本陣とし、同奥屋の報専坊及び大行寺原に営舎が置かれた。後に尾道の西国寺にも分営が設置されている。
小隊長の藩士加藤種之助は、後の内閣総理大臣 加藤友三郎の実兄であり、養子に迎えた。加藤友三郎は、兄であり父でもある加藤種之助が、神機隊の働きを認められ、新政府に雇用され、その働きで友三郎は海軍兵学校へ入学し、海軍大臣から、内閣総理大臣となることができた・
加藤友三郎(かとうともさぶろう)
文久元年(1861年)広島市大手町に生まれる。海軍兵学校7期卒。海軍大学校卒。海軍大臣、総理大臣を歴任。とくに、海相は7年10ヶ月の長きにわたり務める、子爵、元帥。日清・日露・第一次世界大戦で、活躍。東郷平八郎司令長官と共に活躍。第一次世界大戦後、海軍大臣であった加藤友三郎は、初の軍縮会議であるワシントン軍縮会議で、主席全権として調印。その功績がみとめられ第21代内閣総理大臣となる。自ら軍縮を推し進めた。いかなる時も冷静さを失わない加藤友三郎だからこそ、苦難の会議であったワシントン条約を締結できたものといわれる。加藤友三郎は、人前では冷静さを失わないが、友を思い一人になったとき、号泣するほどの熱情家であったという。大正11年6月首相・海軍大臣兼務。加藤友三郎は軍縮を実施するも、奇しくも癌に冒され、大正12年8月首相在職のまま亡くなる。加藤友三郎の銅像が広島市南区比治山にあったが、第二次世界大戦のとき金物供出で失われ、現在は台座のみとなっている。
加藤友三郎伝 加藤友三郎写真 
千代乃春酒造醸造の酒については詳細は05年03月16日「とことん千代乃春 新酒を飲む会」を参考にご覧ください。
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