| 2000/7/29 |
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山積みされた折りづるが四トントラックの荷台からストックヤードに降ろされていく。つるをつないでいた糸がちぎれ、赤や青、色とりどりのつるが散乱する。「平和を願う」などと書かれたメッセージも、原爆ドームのオブジェも、くしゃくしゃになる。可燃ごみを焼く広島市安佐北区の安佐北工場。中区の平和記念公園内にある「原爆の子の像」に寄せられたつるの「火葬場」だ。 「人には言えない」
原爆の子の像が完成した一九五八年以来ずっと、寄せられる折りづるは焼かれ続けている。市はつるの数を把握していないため、数える単位は「羽」ではなく「トン」である。年間十トン前後を焼く。世界中から折りづるを集め、像に供える運動を続けている広島市立長束小(安佐南区)の六年松原理絵さん(11)は「焼かれるなんて、届けてくれた人には言えない」という。 中区住吉町の無職松田忠晴さん(78)は九五年から毎日のように原爆の子の像を訪れ、学校名などを手掛かりに礼状を送っている。一日二通のペースで手書きし、もうじき二千五百通になる。 個人で礼状継続も 七十歳で会社勤めを辞めてから、平和記念公園を散歩するのが日課になった。十人ほどしか児童・生徒のいない学校が山ほど折って来ている。「何カ月かかったのだろうか。大変だったろう」。当時、市は礼状を出していなかった。子どもたちの気持ちに報いたい、と便せんにしたためるようになった。 爆心地から約一・五キロの自宅を焼失し、おいも亡くした。だから礼状には「原爆の恐ろしさを語り伝えてください」とつづる。「私たちのしていることを見てくれている人がいた」と、クラスみんなでうれしそうに返事を書いてくる学校もある。そんな時、松田さんは、折りづるによって子どもたちの心と被爆地広島がつながった喜びを感じる。 広島市は原爆の子の像建立から四十年余りたった今年、ようやく折りづるの保存活用策の検討に乗り出した。五月にアイデアを一般公募したところ、全国から百四十一件寄せられた。 「どこかに展示しては」「原爆資料館の来館者に贈っては」「焼却前に儀式をしたら」などの意見が多かった。被爆者団体や都市デザインの専門家、像のモデル佐々木禎子さんの父繁夫さん(84)=福岡県筑紫郡那珂川町=らの加わる検討会が十月をめどに結論を出す。 届かぬ市民の願い 保存活用策の検討を始めたとはいえ、市の体質は変わっていないエピソードがある。六月下旬、東広島市鏡山二丁目の主婦金田美帆さん(38)に、米国ユタ州に住む知人の長男の中学生ジャスティン・ジョーンズ君(13)から電子メールが届いた。「つるが焼かれるのを知りました。五千羽送ってもらえませんか。病院に飾り、患者を励まし、サダコの話も紹介したいんです」 早速、金田さんは市に連絡した。ところが、「前例もなく困難」との返事。締め切りは過ぎていたが、保存活用策の一案になれば、とジョーンズ君のメールの転送を申し出た。市側は「不要」と返事した。 一連のやりとりで金田さんの印象に残ったのは「日常的に市民の声をくみ上げる組織になっていないのではないか」という思いだ。 |
この記事は中国新聞(http://www.chugoku-np.co.jp/)より転載しています。